故粟國安彦先生演出の蝶々夫人

イタリア・ローマでオペラの演出を学ばれた粟國先生演出の、1984年に初演された蝶々夫人

1990年に粟國先生が亡くなられた後も蝶々夫人の決定版として、藤原歌劇団が大切にし何度も再演している演出を、2019年4月27日、新百合ヶ丘のテアトロ・ジーリオにてようやく観ることができた。

 

幕が上がった瞬間、和室の天井と襖の間を装飾する欄間を模した美しい舞台プロセニアムアーチにすっかり心を奪われてしまった。3幕通じて欄間と満開の桜、舞台奥には扇に長崎の地図が描かれた幕が置かれ、劇中に過ぎる3年の月日を経ても変わらない日本の文化、蝶々さんの変わらぬ心、を印象付ける。

この舞台は藤原歌劇団だけでなく、日本の財産ですね。


1幕と2幕の25分間の休憩中、舞台転換の作業にカン、カン、と大道具さんのなぐり(カナヅチ)の音が劇場に響いた。あ、いいなぁ!回り舞台やたくさんのバトン、映像を駆使する今の演出ではなるべく手間をかけない素早い転換が求められるでしょうけれど、この演出では25分かけて舞台上に蝶々さんの家の座敷を建てるのです。この仕事ができる大道具さんと舞台監督さんを保つのが一番の難題かもしれない…

そして、歌舞伎の舞台のように、舞台中央から上手に座敷、勝手口が下手にある2幕と3幕の舞台。

学生上がりで舞台スタッフのお手伝いをした時に、まず買ったのがセンチメートルの他に尺寸が書いてあるメジャーだった。日本の舞台は、全て尺寸で測って作るから。

今や畳だっていい加減な寸法で作られる時代だけど、舞台上の完璧な日本家屋を見てホッとするのは、やはりDNAなのかしら。


粟国先生といえば武蔵野音楽大学のオペラコース?の演出をされていた話を先輩から伺い、雑然としたお部屋で徹夜で演出プランを練って寝過ごされ授業にいらっしゃらないのでお家まで呼びに行った話とか、亡くなられた時にはお葬式に錚々たるオペラ関係者の長い列があったとか、とにかく私が入学してまもなく亡くなられたので全く接点がなかったのに、その存在の大きさをすごく感じた方でした。

スタッフのお手伝いをした時に、粟国先生演出のアイーダの再演があったけれど、その時もスタッフさんたちが嬉しそうに、初演の時にアムネリス役として来日したイタリアの名メゾソプラノ、フィオレンツァ・コッソットに粟國先生が一生懸命イタリア語で演出プランを説明していたとか、語っていらしたなあ。

 

さて、本編について。

蝶々さんとスズキは和服の着こなしもさすがなら見事に所作が美しい。立花寶山先生の所作指導が結実していて、様式美にこちらも酔うことができる。女性コーラスも和服の立ち方を心得ていて、蝶々さん登場の場面はほれぼれする。

 

スズキは庭に下りたり座敷に上がったりする蝶々さんやゴロー、ヤマドリの草履をその度に揃える。毎回反射的に揃えるのが少し滑稽なくらいだが、それこそスズキというキャラクターを表す所作と言える。

 

ゴローはわざと西洋人のように足を組んだり着物を崩して座ったりする。こういうところ、よく捉えているなぁ、ずる賢く西洋人にかしずいて生きる日本人のステレオタイプがその所作だけで浮き彫りになる。

 

ボンゾやヤマドリの衣裳も見事にキャラクターに沿っていて、しかしデフォルメが芸術的範囲に留まっていて全体を損なうことがない。

 

ピンカートンは3幕で長崎の家に戻ってくると土足で畳に上がる。これだけで日本人の観客を敵にまわすことができる。まさか靴脱がないの!?何考えてるの、と居心地が悪くなり侮辱された気分になる。

 

演出というのはこういうことを言うのではないのか。無駄のない所作の積み重ねで、キャラクターを浮き彫りにし、ストーリーがよく分かるようになる。対立や緊張のありかがはっきり示され、クライマックスでは観客はすっかり引き込まれ涙なくては見られないくらいになっていく。

 

蝶々さんの最期、自害の場面は、歌舞伎の背面落ちというのか、舞台奥を向いて刀を突き刺し、舞台前に仰向けに倒れるパターンがスカラ座の浅利演出、二期会の栗山演出だったと思う。ところが粟國演出では、屏風を立ててその後ろで自害し、脇差を落とすところを見せる。屏風の縁をつたう蝶々さんの手、ものすごい未練をそれだけで表していることが分かり、ぞっとすると次の瞬間、屏風もろとも倒れこむ蝶々さん。そこにピンカートンが入ってくる。この幕切れの観客へのインパクトは絶大で、もう周りのお客様は涙、涙。

 

台本から紡ぎ出したリアリティのある演出、楽譜に書かれた指示に忠実に従いながら、観客にとって最もわかりやすい手法で演出していく。1984年から実に35年の月日を経てなお日本のオペラ演出の金字塔となる舞台だと思います。本当に素晴らしかった!!

 


思いついてふらっと当日券に並んだところ、新百合ヶ丘という交通の便の悪い立地にもかかわらず1300席がほぼ満席なのには驚きました。蝶々夫人の人気の高さ!そしてさらに驚くのは、当日券に並ぶお客様の年齢層…杖をつかれたご婦人がお一人で、おそらく85歳以上ではないでしょうか?他にも80代とお見受けする方が…

藤原歌劇団の往年のファンの方々の熱心さには頭が下がる思いでした。